FC2ブログ
今回ご紹介するのは、文学サークル・まちあかりの同人誌『冬灯』です。

文庫本サイズ、100ページほどの短編作品集ですが、私が特に気に入ったのは萌黄桂さんの「新作、薄紅衣」。

物語は基本的に、とある男(?)の身の上話を、登場人物と一体化した読者が聞かされるという形で進みます。従って、その男(?)が一人称となってあれこれを語るという展開になります。

一人称による身の上語りという形態は、本ブログでもこれまでに何度か言及した太宰治の傑作『駈け込み訴え』や、或いは近年でいえば町田康のいくつかの作品と共通するものがあるのですが、本作の特徴は、その一人称の主が、人間ではないこと。

一人称の主が人間でないといっても、フランツ・カフカの『変身』のようなニヒルな作風ではまったくありません。何せ本作で語る主というのは、プラスチックのケースに密封された状態で、常に氷点下の中に身を置き、中身も衣も真っ白で、大体が2個1セットで売られていて、緑色の串で刺して食べる、もっちりとした食感と甘さがとても美味しい「アレ」なのですから。

「アレ」の正体は、物語の最後の部分で明らかにされています。著者は、「アレ」の正体を明かさないまま、その一人称の語りを展開していきます。読者は、「アレ」の言動から何かがおかしいという違和感を覚えつつも、「アレ」の語りの自然さに、ついつい引き込まれていってしまうのです。

軽妙な「アレ」の語り口調、そしてその「アレ」の話を聞かされた側の人間が、物語の末尾で示す反応。心温まるという表現ではとても足りないその穏やかな、しかし面白みのある展開は、著者の描写力・構成力が高い証拠でしょう。

さて、先の文学フリマで購入させていただいた作品は他にもいくつかあるのですが、本ブログで紹介させていただくのは今回までにしたいと思います。

本ブログで紹介しなかったものも含め、文学フリマで頒布された作品を読んでいて改めて感じたのは、「良質な作品」と「商業ベースで黒字化できる作品」は必ずしも等記号では結ばれないということ(勿論、両者がイコールで結べる場合も多々ありますが)。文学フリマの事務局が、文学活動が基本的に赤字体質であることを指摘したコラム「不良債権としての文学」をその運営の原点に据えている点が、今更のように納得できます。

同時に、それら頒布作品を読むという作業は、私にとっては「より良質な赤字作品を作れるか?」という自問を絶え間なく突きつけられる過程でもありました。

私は、政治学研究の分野ではいずれ博士号を取得し、プロフェッショナルとして学術論文を書いていくつもりでいます。しかし、小説の執筆に関してはおよそプロとして生計を立てていこうなどとは思っていませんし、それができるとも思っていません。なればこそ、自らの知的関心を土台として「韓国人の視点から見た台湾の外交的孤立」や「ベトナム人の視点から捉えた韓国軍のインドシナ派兵」といった採算性を度外視した小説を書いてきた訳ですが、これまでの紹介した諸作品を読む中で私は、そうした「より良質な赤字作品を作る」という取組みに、尚発展の余地がある(それも、大いにある)ことを改めて実感しました。

さて、私の方は、目下次回作の原案を仕上げつつある段階にあります。次の作品も、『半島と海峡の狭間で』や『疎遠なる同胞』と同様、東アジアの現代史を題材とした長編です。大まかな予定としては今年中に原案を作り、来年1月に現地取材、その後原案の最終修正を経て2月に書き始め、初夏から夏にかけて完成…と、どう考えても次回の文学フリマには間に合わないのですが(ちなみに第十四回文学フリマは来年5月6日開催です)、その代わり来年5月のイベントでは、3年前に書いた長編の再版を頒布する予定です。

どうかご期待下さい。
スポンサーサイト
2011.11.28 / Top↑
kouyou2
勤務先(明治学院大学)にある自分の机から見た外の景色です。携帯のカメラで撮ったので不鮮明ですが、キャンパス内にある木々の中に、赤く色づくものが出てきました。

kouyou1

他方こちらは、今週初めに旅行してきた福島県会津地方にある湯野上温泉の様子。露天風呂が貸切状態になっていたこともあり、そこからの眺めを写真に撮ってきたのですが、こちらでは既に紅葉の盛りが過ぎていたどころか、雪が降っていました。

これから一層寒くなってきますが、どうか皆さん、体調にはお気を付け下さい。

さて、今回も文学フリマで購入させていただいた本のご紹介です。

副墨亭『はいくな人々』

著者の方はご自身のブログをお持ちです↓
http://hukubokutei.blog79.fc2.com/

表題に「はいく」という言葉が含まれていますが、著者自身がブログ内で述べているように、本作品は「5・7・5」の定型詩とは全く関係がありません。本作品表題の「はいく」とは、「クラスを廃止する」の略語、即ち「廃ク」です。

舞台はとある高校。そこに通う2人の男女が、お偉いさんの子女を相手にちょっとした粗相をやらかしてしまったことから、この物語は始まります。粗相を受けた生徒の親御さんは大いに怒り、2人の「加害者」はもとより、その2人の所属するクラスの生徒全員までをも、連帯責任として退学に処しようとします。まさしく、「廃ク」の危機です。

廃止とされたクラスの担任教員はノイローゼとなり、「終わりだ、すべてが終わったんだ…」と独り言を繰り返すばかり。2人の生徒は「被害者」に詫びを入れようとするも、その詫びの席での誤解から、「被害者」をますます怒らせる結果となってしまいます。

そんな中、ある人物が提示したのが、「廃止とされたクラスの生徒全員で演劇をやる」というもの。芝居好きである「被害者」のためにクラス一丸となった劇を演じれば、誠意ある反省と見てもらえるかもしれないというのです。が、そのクラスの生徒たちというのが、自分の書いた超展開含みの脚本を絶対に修正しようとしない自信過剰な子や、囲碁中継のように経過時間を秒刻みで口にする以外一切言葉を発してくれない子、ギャルゲーにはまりこみ、それを演劇の内容にも投影しようとする子と、頭のネジが5,6本外れたような変人ばかり。こんな面々で、果たして芝居などできるのか…。

著者はあとがきの中で、口から出した言葉が事実と見做されてしまう演劇の作用に興味を持ち、本書を書いたと述べています。ネタバレになるので詳細は伏せますが、そうした芝居の持つ不思議な作用が、本書の後半部では巧みに描かれています。

読者として私がまず興味をひかれたのは、作品内で登場人物が演じる芝居が上記のごとく「言葉が事実とされてしまう」場となっている以前に、その登場人物たちが「(自らの発する)言葉を事実にしようとする」面々であるということ。例えば、上述した自信過剰な脚本家は、本当は超展開だらけで矛盾含みの脚本を「私の書いたものは完璧だ」と言うことによって、「自分が書いた完璧な脚本」という、傍目には事実と見られていない存在を事実に仕立て上げようとします。こうしたいわばドン・キホーテ風の人物が数十人登場し、互いにぶつかり合いながらも一つの芝居を作り上げていく過程をコミカルに、そして多分に風刺を交えながら描いたところに、著者の力量を感じます。

次に指摘しておきたいのが、おそらく非常に博識であろう著者が、登場人物の言動や物語の展開の中に、古今東西の歴史的・社会的事象への風刺をふんだんに盛り込んでいるということ。本作はまず、粗相をやらかした2人の生徒が、連帯責任をとらされることとなったクラスメイトから次々に断罪されていくという場面から始まっています。この「断罪」の過程は、裁判という形をもって進められるのですが、俄か作りかつ輪番制の裁判長に、最初から決まっている判決、理論武装した面々によるヒステリックな言動と、プロレタリア文化大革命下の中国における自己批判と寸分違わぬ展開で進められています(ちなみにこの場面の挿絵では、断罪される2人が四文字熟語を書いた三角帽子を被っています)。

物語に風刺を盛り込もうとする時、人は「大事件を難しい言葉で、真面目な顔をして語るのは優しい。だが同じ出来事を易しい言葉で、面白く語るのは難しい」という現実に直面します。何故なら、前者と違い、後者には「センスの良さ」が要求されるからです。無論、風刺そのものを好むか否かは人それぞれですから、読者の中には賛否両論あるかもしれませんが、FOXのアニメ『ザ・シンプソンズ』で出てくるような風刺ネタが大好きな私としては、非常に楽しく本作品を読むことができました。

ただ一点、これは好みの問題かもしれませんが、著者が恐らくその頭の中に持っているであろう豊富な知識をコントロールしきれていないためか、著名な人物の言動や有名な台詞が、物語の中に過度に詰め込まれているという印象を私は受けました。自らの知識を動員し、含蓄ある文章を書けることが素晴らしい技術であることは言うまでもありませんが、時にはそうした動員を抑制し、自分自身の率直な言葉で事物を表現するということもまた、欠かすことのできない技術です。とはいえ、これは上述の通り読者の好みによる部分もあります。また、かく言う私も小説を15年書いていながら、未だにこれらの技術を習得したとは言えない立場にあるので、あまり大声で指摘できることではなかったりします。

ともあれ、本作が気軽に読め、かつ文中に散りばめられた風刺ネタに笑わされてしまう良作であることは間違いありません。著者の今後の作品を楽しみに待つこととしたいと思います。
2011.11.25 / Top↑
前回に続き、第十三回文学フリマで購入させていただいた作品のご紹介をしていきます。

佐久原廠『帝国主義者の戦後』『スターリン時代』『侍とカラシニコフ』

著者の方はご自身のウェブサイトをお持ちです↓

http://surugaokb.web.fc2.com/

『帝国主義者の戦後』は、「大東亜戦争と八月十五日の敗戦。もしそれが無かったとしたら、日本は、そして世界はどうなっていただろうか(裏表紙紹介文より)」という仮定に立脚した短編を2本、同仮定には立っていないものの、現実の日本が経てきたそれとは異なる「戦後」の断面を描いた短編を2本、計4本の短編を収録した文庫版個人誌です。

表題作にもなっている「帝国主義者の戦後」は、対米戦争を経なかった日本が物語の起点となっています。時代は、現実にはこの国が高度経済成長を経験していたのとほぼ同じ頃。日本は敗戦を経験していないため、朝鮮を引き続き植民地統治の下に置き、満州国も勿論存続しています。主人公は、その満州国における日本の国策会社・南満州鉄道の日本支社に出入りする写真家。その彼が満鉄社員と2人、満鉄の本拠地たる満州へ旅に出るという形で話が展開していきます。

『スターリン時代』は、文字通りソ連が大粛清とその後の対独戦に直面していた時代を描写した短編、『侍とカラシニコフ』は幕末の志士たちと現代の所謂イスラーム主義者を重ね合わせた中編です。この2作は、いずれもB5版ホチキス止めです。

過去の出来事について「もし」「たら、れば」という観点を持ち込み、そこから想像をめぐらすという作業は、歴史小説を書く上では絶対に欠かせません。私は2年ほど前に、文化大革命を題材とした『帰るべき国』という、46万字超の長編小説を書いたことがあるのですが、この作品の原点は、「もし、三・一独立運動直後の朝鮮に『勝ち馬に乗るべし、抵抗するだけ馬鹿を見る』と考えた朝鮮人がいたら…」という仮定にありました。(尚、この『帰るべき国』は周囲からの評判が非常に良いので、いずれイベントなどで頒布できれば、と考えています)

上記の作業を経ている上、著者が北東アジアの近現代史について十二分な知識を得てから作品を書いていることもあり、これらの作品、特に「帝国主義者の戦後」は、大いなる魅力を持っています。

惜しむべきは1つ、著者が「侍とカラシニコフ」のあとがきでも若干触れているように、物語の「構成」に若干の難があるという点。登場人物の人数や性格、物語として描かれる範囲の絞り込み、マクロな時代背景とミクロな登場人物の中間を埋める描写。これら3点の構成がより緻密に練られてさえいれば、著者の作品、特に45000字と一番長い「侍とカラシニコフ」は、単に「魅力がある、面白いもの」ではなく、「思わず物語の中に引き込まれてしまうもの」になれるのに…と、一読者として思いました(もとより、これらの欠点は私の小説の中にも多分にあるでしょうが…)。

ただ、上記の点は、私が短編を書かない長編偏重であるがゆえに、欠点と見えてしまうだけかもしれません。

著者の文体はかつての歴史小説家・司馬遼太郎のそれを踏襲している箇所が少なからずある(例:物語の叙述の要所要所に、著者視点の『ナレーション』が入る)ので、著者自身、「読者を物語の中へ引き込む」ことは目指していないとも思えます。

ちなみに、司馬は描写に長ける一方、長編の構成力に難がある小説家として有名でした。私は個人的には、乃木希典を描いた『殉死』(文庫本200ページ前後)あたりが、彼が無理なく物語を構成できる上限だったのではないかと思っています。

いずれにしても、「売れるものを書くのではなく、書きたいものを書く」という著者のスタイルが物語内において明確に貫徹されていて、かつそれが一定の魅力を持つに至っているという意味において、上記作品群は十二分な魅力を持っているといえます。
2011.11.12 / Top↑
(※今回の記事では聖書に言及した箇所がありますが、当該箇所をお読み頂くにあたり、私・高森がプロテスタント教徒である点を断っておきます。また、本記事では『エホバの証人』に言及した箇所がありますが、当該箇所の記述は私・高森の責任によるものであり、日本バプテスト連盟およびキリスト教大韓メソジスト会の見解とは必ずしも一致しない点、お含みおきください)

今後しばらくの間、先の文学フリマで購入させていただいた本のご紹介をしていこうと思います。

志々真実子『ハロー、クリプ』(オープンページ、2010年)

自費出版された本ですが、以下のリンク先にあるように、書店でも流通している本です。
http://www.open-page.jp/booklist/978-4-86366-700-6.html

文学フリマの会場では、著者と思われる女性の方が、通販カタログのカラーページを再利用したブックカバーを被せてくださいました。

「クリプについて少し話そう。彼は「うしねこ」であり、僕の兄弟であり友達だ。牛みたいに体格が大きい訳じゃ無い。彼の毛色が牛みたいな模様なのだ。そして、クリプの姿は基本的に僕にしか見えず−。」という出版元の紹介文が示すように、本書は子供と、その子供にしか見えない「うしねこ」のつながりを軸として物語が展開されています。

他方、本書では、上述した子供と「うしねこ」のつながりとは別に、人探しの依頼を受けた探偵が、その対象人物を探しに動き回るという物語も展開されています。当初別個に進んでいたこれら2つの物語は、作品中盤から後半にかけて巧みに紡ぎ合わされていくことになります。

基本的に同一時系列で進む2つの話を無理なく、しかし同時に多分に読者をひきつける要素を盛り込みながら1つにまとめていくところに、著者の卓越したセンスが感じられます。

さて、本作では物語の節目節目で聖句が引用されています。この聖句の引用元は、著者が明記しているように、基本的に『新世界訳聖書』。エホバの証人で独自に編纂・訳出され、用いられている聖書です。(私の所属するバプテスト教会を含め、プロテスタント教会の多くでは『新共同訳聖書』という訳版が用いられています)

エホバの証人は、一般的にキリスト教としてイメージされるものとは異なる教理をいくつか掲げています(例:クリスマスを祝わない)が、そうした教理の1つに、「戦うことをおぼえない」というものがあります。人間を相手とする武力行使、戦闘行為、およびそれに準ずる一切の行動を禁じる、というものです。

エホバの証人の信徒が、徴兵制を敷く国で兵役を拒否した話や、体育の授業で武術を習うことを拒んだ話などは、聞いたことがある方も少なくないだろうと思います。

本書の著者がエホバの証人の信徒なのか、私には分かりません。また、著者が本書の執筆に際して、そうした『新世界訳聖書』に体現化されたエホバの証人の教理をどこまで意識していたのか、私は知りません。

このことを予め断った上で述べさせていただきますが、本書の主人公である少年・キリトは、この「戦うことをおぼえない」という『新世界訳聖書』を通じて提示される教理に、物語の最後まで誠実に向かい合っていたように、私には思えました。

言い換えれば、物語の展開と、そこでの主人公の言動が、折々で引用される聖句と連続性を持っているのです。

宗教の経典を文学作品で引用することは、下手をするとただの「ファッション」に堕してしまう危険性が低くないのですが、本書は、そうした陥穽を着実に回避する構成となっています。

このように、宗教の経典を文学作品内で丁寧に、そして巧みに扱うには、当該経典に対する深い知識と理解が必要になります。これは本人の信仰とは別に要求される(太宰治は傑作『駈け込み訴え』を書きましたが、太宰本人はクリスチャンではありませんでした)もので、当該経典をどこまでも理性的に読み込む忍耐強さが要求されるものです。

著者が聖書を、その背景まで含めて理性的に読み込んだ点は、文中の引用聖句の圧倒的多数が旧約聖書からのものである中、最後の1か所だけが新約聖書からのものであるところにもうかがえます。

経典に対する深い読み込みと、それを巧みな物語へと昇華させた著者の小説家としての手腕は、高く評価されてしかるべきでしょう。
2011.11.08 / Top↑
第十三回文学フリマにてご購入いただいた『ガラスの瞳』売上金を、本日(11月8日)付で、発行人の名義にて寄付させていただきました。詳細は以下の通りです。

寄付方法:ふるさと納税(銀行振込)
寄付先:岩手県総務部税務課
指定使途:ふるさと岩手応援寄付(いわての学び希望基金)
寄付金額:一冊単価400円×売上数5冊+著者からの献金1000円=計3000円

ご協力ありがとうございました。
2011.11.08 / Top↑
私にとって(売る側としては)初めての即売会、第十三回文学フリマが無事終了しました。

高森純一郎のブースへとお立ち寄りくださいました皆様に、心より御礼申し上げます。

今後とも、同様の行事には可能な限り参加してまいりたいと思っておりますので、お付き合い頂けますと幸いに存じます。

尚、頒布3作品中、売上を全額岩手県に寄付するとしておりました『ガラスの瞳』は、出店3作品の中で一番少なかったものの、5名の方にご購入いただきました。

事前にも告知しました通り、また当該誌奥付にも記しました通り、同作の売り上げは全額を岩手県の震災孤児支援基金「いわての学び希望基金」に寄付させていただきます。

後日、岩手県への寄付手続きが終了した際にはその旨を報告をさせていただきますので、暫くお待ち下さい。

重ねまして、本日は、私のブースへお越しくださいまして、ありがとうございました。
2011.11.03 / Top↑
明後日開かれる「第十三回文学フリマ」の最終案内です。

文学フリマの開催概要は以下の通り

日 時:11月3日11:00-16:00
場 所:東京流通センター第二展示場
出展者:約600団体
主 催:文学フリマ事務局

当日会場で配布されるカタログのPDFが公式ウェブサイトにアップロードされています。
http://bunfree.net/

私・高森純一郎のブースは‘B-26’、1階出入口を入ったところにある並びの、一番奥とのことです。

頒布作品は、冷戦時代の台湾を舞台とした『半島と海峡の狭間で』(無料)、子供のジェンダー・アイデンティティをテーマとした『ガラスの瞳』(400円)、ベトナム戦争末期のサイゴンを舞台とした『疎遠なる同胞』(500円)の3種類。尚、私は短編小説を書いておりませんので、アンソロジーの頒布はございません。予め、ご了承下さい。

著者本人は基本的にブースにいる予定です。お昼前後に、他のブースを見て回ったり、食事をしたりなどで席を外すことがありますが、ブースでの販売は私の友人がやっているので、私が不在の間も作品の購入は可能です。

ご来場、心よりお待ちしております。
2011.11.01 / Top↑