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韓国でこのブログ記事を書いているため、コンピュータ環境の都合で日本語が正確に表示されないかもしれません。その場合は日本に帰国した後に修正しますので、どうかご了承ください。(한국에서 블록 글을 쓰기 때문에 컴퓨터 환경으로 인해 일본어가 정확하게 표시되지 않는 우려가 있습니다.그 경우에는 일본 귀국한 후 고치겠으므로 용서해 주시기 바랍니다.)

麗水万博に行く途中ということで、現在ソウルにいます。今日はペンテコステ(聖霊降臨節)であり、かつて高麗大に在籍していた時に通っていた教会へ、久々に行ってきました。2年ぶりの再会となった友人たちと久闊を叙した後、いよいよ明日は万博というところで、この記事を書いています。

さて、あと2週間となった福岡ポエイチでの出展作品は、5月の第14回文学フリマと同じ、以下の3点です。以前の記事のコピペになりますが、出展作品の概要を以下に記します。

『解放する者たち』(2012年作/17万字)…頒布価格:500円
20世紀前半の朝鮮、貧しい小作人の姿を目の当たりにした青年キム・ギョンシクは、故郷を貧困から解放するべく官吏を目指すようになります。他方で彼の弟サンシクは、祖国・朝鮮を日本の植民地支配から解放するべく政治運動を試みるようになり…。兄弟の志の違いが、朝鮮半島を巡る国際的変動に巻き込まれる中、次第に衝突するようになっていく過程を描きます。

『疎遠なる同胞』(2011年作/23万字)…頒布価格:500円
インドシナに派兵された韓国軍によって両親を殺されたベトナム人少女。当時の南ベトナム首都・サイゴンへと逃れてきた挙げ句、皮肉にも韓国人記者に雇われることとなった彼女の視点を通じて、戦争最末期のベトナムを描き出します。

『ガラスの瞳』(2010年作/10万字)…頒布価格:400円
三陸海岸北部のとある地方都市で生まれ育ったナオミ。11歳の『彼』は、肉体的には男でありながらも、女として育てられてきました。思春期の入口に差し掛かった『彼』の性意識は、やがて近所に引っ越してきた少女・コトネとの出会いによって大きく揺れ動いていくことになります。

なお、『ガラスの瞳』の売り上げについては、先月の文学フリマでの売り上げと併せ、岩手県にふるさと納税の形で寄付させていただきます。

「ポエム」をイベント名に含む即売会に出すには、いささか重いテーマの作品、と思われるかもしれませんが、少なくとも書いている著者本人は、濃厚なストーリーラインを以ってして読み手の方に楽しんでいただける作品を書くよう心がけておりますので、現代史の政治的事象に詳しくないという方も(勿論詳しいという方も)、どうぞ福岡ポエイチにご参加の際は本ブースへお立ち寄りください。

多くの方のお越しをお待ちしております。
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2012.05.27 / Top↑
tj_rh著『時間の中で』(収録作:「陽だまり」ほか)
都春奏太編『まちあかり-空灯-』(収録作:萌黄桂「空は呼ぶ」.桐旗晶「先生」ほか)

私は大学で事務員として働き、院生として研究に従事する傍ら、塾講師のバイトもしています(ちなみに担当科目は英語です)。

このバイト、韓国に留学していた2年間の中断を挟みながらも、学部1年生の時から続けること10年。勿論、始めた当初は後期課程まで同じバイトを引きずることになるとは思っていなかったのですが…。

これだけ長いこと塾講師をやっていると、興味深い場面も多々出てきます。

それは他でもなく、生徒が大人への階段を登っているのだと感じる時です(塾講師という、学校教員未満・赤の他人以上の関わり方をしていると、この辺はより冷静に認識できるように思えます)。

講師として1週間に一度、およそ1時間半顔を合わせる中ではさほど実感することのない変化。しかし、授業内容の整理などでふと過去数ヶ月を振り返ったりする時、彼(女)たちが二十代後半の私には到底真似できない速さで変化(マクロ的には大人に近づくという方向性を有しているものの、ミクロ的には紆余曲折を経るという意味で、成長というよりも変化)している現実に気付かされたり、などということは一度や二度ではありません。

それが数年単位となれば…もはや言うまでもないでしょう。フランス人形と見紛うほど大人しかった子が海外留学をするアクティブな女子大生になっていたり…(こうした長期的な変化をめぐる感慨は、学校の先生の方が遥かに深いことでしょう)。

わずか数年という時間を経るか否かで、全く違う側面を見せる存在。それどころか、ほんの数ヶ月を経るだけで劇的な変化を見せる存在。古今東西、数多の文学作品が、或いは映像作品が、抽象的な(内なる存在としての)子供、特にその変化がより明瞭に表れやすい少女を取り上げる背景には、その「あまりに速く、しかしそれ故に不安定性をも多分に含んだ変化」があるのでしょう。

しかし、そうであるが故に、「内なる少女」と向かい合うことは少なからぬ困難さを伴います。一方で速く、他方で不安定な変化を見せる人間像を時系列的な流れを以って描くことは、やもすれば「成長」ばかりを前面に押し出した御都合主義に陥ったり、逆に「不安定さ」ばかりに焦点を合わせ、内なる少女の重要なる構成要素たる成長性を無視することになったり(=すなわち、子供から大人への過渡期という少女の基本的性質が否定され、単に情緒不安定な人間になってしまう)します。

本記事を綴っている私自身も、「内なる少女」を描くことは得意ではありません。先日、有難いことにあるサークルさんが『ガラスの瞳』(主人公は12歳の子供)の感想を書いてくださったのですが、一言で表せば「捻りが足りない」というご批判を頂戴することとなりました。共産軍に追い詰められる南ベトナムのカオスぶりを描いた『疎遠なる同胞』(主人公は16歳の少女)が比較的好評である状況を見るにつけ、自らの苦手分野を改めて思い知らされているところです。

本記事冒頭に記した2冊の短編集に収められた計3つの短編は、そうした「内なる少女」を描くという難易度の高い作業を非常に柔らかな、しかし同時にクリアな文体を以って成し遂げた作品です。

tj-rhさんの「陽だまり」は、とある家庭教師の視点から、体が風化していく病に侵された少女の崩れそうな、しかし同時に柔らかな心を描いた短編です。病に倒れる前の、愛くるしいまでに元気だった時の少女の姿が併せて描写されることにより、僅かな時間で少女の心身が大きく変化してしまったことが浮き彫りになるのですが、その時間の変化が肉体的には少女を蝕む過程となるのに対し、精神的には少女が大人に、それも優しさと理性を兼ね備えた極上の大人へと成長していく過程となる辺り、筆者のセンスを感じずにはいられませんでした。

上述の「内なる少女」の時系列的変化という観点を用いるのであれば、筆者は1人の登場人物に仮託した「内なる少女」の性質を肉体的なそれと精神的なそれに分け、両者が異なる方向へと進んでいく状況を描写することにより、同概念に内在する不安定性と成長性を見事に両立させていると言えるでしょう。

『まちあかり』は、昨年11月に文学フリマで販売された『冬灯』が面白かったので、今回も購入させていただきました。

萌黄桂さんの「空は呼ぶ」は、中学一年生になりたての少女が、新品の制服を着て自宅を出るところから物語が始まります。家を出た少女は、「空には扉がある」という言葉に促され、ふと空を見上げる。その見上げた空から、少女が飛行機に乗って旅をする場面、その機内で隣席に居合わせたお姉さんとの関わりへと描写はシフトしていき、やがて大空に浮かぶ雲の上を舞台とする幻想的な世界へと読者を引き込んでいきます。

著者は、少女の視点から描く幻想的な世界について、回りくどい説明や客観的な事実の指摘などはしません。読者は、12歳の女の子の視点から、そのはっきりと説明されない描写を捉えていくことにより、幻想感と浮遊感、そして不安感を抱くようになります。そして、やがて不安感が前二者をオーバーライドするようになってきたところで著者は、機内の隣席に座るお姉さんとの関わり、搭乗機の着陸、タキシングと、まさに飛行機が地上へ下りていく過程とシンクロさせることで、読者を現実性の強い世界へと連れ戻していきます。

「内なる少女」が、一方で不安感を覚え、もう一方で前へ(もしくは上へ)歩みを進めていく過程を、フライトに仮託して描いているといえるのですが、前者の象徴として幻想的な世界が丁寧に描かれ、後者の象徴としてお姉さん(数年後に少女がなっているかもしれない姿)が置かれることにより、読者自身をして、自分があたかも軸となる12歳の少女になりきったかのような感覚を抱かせてくれます。

桐旗晶さんの「先生」は、高校の先生の視点から、生徒である(生徒であった)女の子の変化を、「在学中/卒業後」という2つの時間点を交差させることで描き出しています。一読すると高校生だった女の子と、卒業後の彼女が対比され、後者の成長ぶりが見てとれる、という内容なのですが、一旦最後まで読み通した上で、もう一度最初から物語を読んでいくと…この年代の少なからぬ女の子が通るであろう「一筋縄ではいかない部分」が見え隠れしてきます。

前述のように「内なる少女」を描いた文学・映像作品は国内外含めて無数にあり、それだけに一見すると「語りつくされたテーマ」のようにも見えてしまうのですが、上記3作品の著者たちはそこに新たな切り口を見つけ出し、小さな、しかし読後に余韻に浸りたいと思わせてくれる作品を書き上げました。一小説好きとして、頭の下がる思いです。

ちなみに、一昨年の『ガラスの瞳』で12歳の少年を主人公とし、昨年の『疎遠なる同胞』で16歳の少女を主人公とした私ですが、今年春に書いた『解放する者たち』では三十路の韓国人内務官僚を、現在執筆中のフィリピンを舞台とした長編では四十路間近の日本人大蔵官僚を、それぞれ主人公としています。更にその次の作品は東南アジア某国の高級将校が主人公になるかもしれず…。私が今後自分の手で「内なる少女」を描くことがあるとして、それは当分先のことになりそうです…。
2012.05.15 / Top↑
神風零(サークル名:大和雪原)『灰に、なるまで』『初めて「」を殺した日。』『弾痕の眼』
増田原樹「少し遠いところまで」(北九州書房『溶鉱炉』第3号収録)

生涯で1000を超えるショート・ショートを遺した作家・星新一の傑作に「白い服の男」という作品があります。(以下二段落、同作品のネタバレにご注意下さい)

この作品は、全人類が世界規模の戦争で破滅的な打撃を被ったという前提の上で物語が展開されています。戦禍に懲りた人類の指導層は、二度と戦争を起こさない方法を模索し、その結果として「あらゆる戦史を抹消し、戦争を巡る一切の知識・情報を大衆の目に触れぬよう封印し、以って人々の思考から『戦争』という概念そのものを抹殺してしまう」という方途を思いつきます。

この政策は成功し、人類は戦禍の脅威から解放された世界を手にします。ただし、軍事の知識を得た人々や、『戦争』の概念に興味を示した人々をも社会的に抹殺してしまうという対価を払いながら…。

この作品は、あくまで風刺(それも、秀逸なる風刺)を込めたフィクションです。少なくとも私の知る限り、著者の星は生前、本作品と現実世界の日本を結びつけるような発言は行っていません。

しかし、前世紀後半以来の日本における概念としての『戦争』の扱いは、部分的にではあれ、星が「白い服の男」で描いた内容と重なっています(それが星の作品を秀逸なる風刺たらしめてもいるのですが…)。

第二次大戦後、この国では近代日本における軍事イシューを『反省』という修辞の下に『忌避』し、個人的体験を超える次元での戦争、すなわちカール・フォン・クラウゼヴィッツが言うところの「政治の延長線上としての戦争」から目を背けることが長らく正当化されてきました。日本の周辺では依然として「政治としての戦争」が数多く勃発してきたにもかかわらず、です。

その副作用は決して小さくありません。軍事イシューを忌避し、政治としての戦争を排除し続けた結果、この国は世界的にも決して質の低くない高等教育機関を数多く有していながら、(士官学校に相当する防衛大学校を除いて)社会科学としての軍事学を体系的に学び、研究できる大学をほとんど持っていません。この国で戦争の開始、遂行、終了をめぐる政治過程を冷静かつ客観的に学ぼうとする者は、防大に入るか、さもなくば海外留学をするしかないという状況にあります。私自身、政治学と10年以上も関わっておきながら、社会科学としての軍事学は日本国内で学んでおらず、韓国留学中に「現代軍事戦略論」として1セメスター勉強したのみです。

勿論、防衛省の白書や各種広報資料、軍事関連雑誌など、この国にも軍事に関する一定の情報はあります。しかし、それらを用いた一般的法則性の導出や断片的情報の統合・体系化というものが殆どなされていない状況下、この国に住む人々が(各々の政治的思想とは無関係に)戦争ないし軍事に関わる事項を深く、幅広く知ろうとすることは決して容易ではありません。

本記事の冒頭に記した諸作品は、そうした軍事を巡る情報の制約を受けつつも、「政治的意思の遂行としての戦争」を、「人間としての軍人」という視点から丁寧に、そして現実感たっぷりに描き出した良作です。

神風零氏の諸作品は、「自衛隊の海外派兵を連想させる描写がありながらも、本文中の階級呼称は旧日本軍のもの」という、一見すると不思議な世界を舞台としています。しかし著者は、その詳細について深く語ることをせず、物語に登場する軍人たちの人間性、生き様、そしてそれらのすれ違いを描くことに軸足を定め、複数の短編を纏め上げています(ちなみに、これらの短編はamazonでも販売されています)。

戦争とは、国民国家を統治する主体としての政府による決定事項、すなわち「政治的意思」の遂行です。従って軍人は、そのハイアラーキーな組織において、上官から下された命令に従い、各々に与えられた「意思」の各部分を遂行していくことが要求されます。そこでは軍人は、政治的意思の冷徹なる実行者であることが期待され、要求されることになるのですが、しかし現実世界が必ずもそうならないというのは半ば常識。軍人といえども人間ですから、互いの合う・合わない、意見の一致・衝突などはどうしても起こってしまいます。

著者は、軍人の生き様が好きだということを『灰に、なるまで』の後書きや文学フリマでのカタログに記しています。著者の作品は、そうした軍人をめぐる本音と建前を、性格の異なる複数の軍人を登場させつつ、読みやすい短編の形に編み上げているといえます。

増田氏の「少し遠いところまで」は、第二次大戦に従軍した旧日本海軍の搭乗要員による「語り」という形で話が進みます。一人称である元軍人の話は、大戦末期、旧軍上層部が特攻を命令し、最前線のパイロットがそれに従って敵艦へ体当たりしていく過程を、戦果確認要員の視点から語っているのですが、そこで殉死するパイロットと自分自身が交わした最後の会話を地味な、しかし安定感ある言葉の使い回しで記していくことにより、「命令を実行する軍人」と「自らの立場・境遇に思うところのある人間」との乖離を、はっきりと浮かび上がらせていきます。旧軍の航空部隊が出てくるという点では、城山三郎が書いた『一歩の距離 小説予科練』に通じるものもあるといえるでしょう。感情を程よく抑制した読みやすい文体であり、読者を無理なく七十年前の世界へと誘ってくれる良作です。
2012.05.11 / Top↑
昨年の第十三回と同様、一昨日の第十四回文学フリマでも、他サークルの作品(集)をいくつか購入しました。前回の販売作品が面白く、引き続き今回も作品を購入したというサークルもあれば、今回初めて作品を買ったというサークルもあり。気に入った作品があれば、後日ブログの記事としてアップするつもりでいますので、その際はお付き合いいただけますと幸いです。

今回は、文学フリマで購入したものではなく、その数日前、あるパーティーの席で著者ご本人から直接頂いたハードカバーの小説について、感想を述べていきます。

山川修平『チャーリー 緑色の淡い色合い』文芸社、2007年

一人称で語る主人公は大学生、生物学の研究室に所属し、指導教員から卒業研究の対象を早く決めるよう促されています。そんな彼は、ある日、屋外で空から落ちてきたと思しき異形の生物と出会います。主人公とその異生物の奇妙な共棲、その共棲を知らぬまま主人公と接する大学の友人たち、そしてそれらの合間で主人公が見る不思議な夢。自身の行動半径の中で感じる幾つもの刺激を受けながら、やがて主人公はより前へ、しかし同時により深く、人生の路を歩んでいくこととなります。

さて、私は著者の山川氏から「私小説のようなものです」という紹介と共に本書を頂きました。

周知の通り、私小説という概念は日本文学に深く根を下ろしたものであり、一般に私小説に分類される作品の中には優れた作品も数多く含まれています。私が小説を書き始めるきっかけになった人物であり、筆名・高森純一郎の由来となった太宰治も、私小説とされる作品をいくつも書いています。

ただ、恥ずかしながら私自身は、私小説に該当するであろう作品を殆ど書けないまま、アマチュア小説家として十五年の時間を歩んできました。

それは恐らく、子供の頃から政治学研究に憧れ、そして過去10年一貫して政治学と関わり、社会と自身の連続性を万事の絶対的前提条件と看做すようにさえなってしまった私が、「私的空間における自我」を「公的空間から切り離された存在としての自我」と区別できなくなっていること、更に言えば、自分の行動半径と、その外縁に広がる世界の双方を、「社会という公的領域と一体化・融合した自我」という単一の尺度で見るようになっていることと無縁ではないのかもしれません。

常に社会という公的領域を視野のどこかに置き、そこへのアクセスを頭の片隅で考えてきた私は、「自分とは無縁な世界」「自分とは隔絶された世界」という概念に、特に公的領域を対象としてそのような概念が用いられることに、しばしば違和感を抱いてしまいます。

そうであるが故に私は、私小説を書こうとしても、そこに自身の生活空間の延長線上にあるものとしての公的領域を物語の中に含めてしまうのです。最近の例で言えば、文学フリマにも出展した『ガラスの瞳』がそれに該当します。あの作品は、幼少の一時期女の子になることに憧れ、スカートを日常的に着用していた私自身を原点として草案を練ったのですが、その執筆過程において私は、物語の中に性同一性、或いは地方都市における閉鎖的な人間関係という社会的な要素を織り交ぜずにはいられず、結局はその社会的要素を前面に押し出す作品を書く結果となりました。

そこへ来ると山川氏の『チャーリー』は、大学生である主人公の行動半径のみを描きつつも、その外縁に広がる公的領域を程よく示唆する立場から物語を描いています。というよりも、生活の様々な場面で立場の異なる人(+異生物)と関わり、そこから何物かを感じ、そして何物かを得るという主人公の行動は、社会というものの本質を凝縮したものであると言っていいのかもしれません。もしそうだとすれば、著者は主人公の行動半径に仮託した私的領域へ、公的領域としての社会を引き込むという作業をやったことになります。

公的領域としての社会に自分を合わせ、そこへ自分が足を伸ばしていくというチャネルがあるのなら、逆に自身の私的領域に社会を引き込むというチャネルもある。当たり前の話ではあります。しかし、前者ばかりに偏り、後者を疎かにしがちな私自身にとって本作は、自分が自我と社会をつなぐ2つのアプローチのうち、一方のみを用い、もう一方を使いこなせていないということを改めて思い知らされてくれた一冊でした。
2012.05.08 / Top↑
過日、第十四回文学フリマが無事に終了しました。私・高森のブースへいらして下さった皆様、本当にありがとうございました。

既述の通り、私は6月10日に福岡市で行われる福岡ポエイチにも出展いたします。九州北部在住で当日お時間に余裕のある方、是非お越し下さい。多くの方のご参加をお待ちしております。

前回の文学フリマと同様、今回も『ガラスの瞳』の売上金額は全額を岩手県に寄付いたします。今回の同書の有償配布部数は6部でしたので、単価400円×6部=2400円が寄付されることになります。尚、寄付手続きの時期については、以前本ブログに記した通り、福岡ポエイチ終了後の6月中旬を予定しております。1ヶ月ほど私の手元で寄付金をお預かりする形となってしまいますが、何卒ご了承願います。後日、岩手県への寄付手続きが終了した際にはその旨を報告させていただきますので、暫くお待ち下さい。
2012.05.07 / Top↑