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来年春の第十六回文学フリマが、大阪・堺での開催になると発表されました。派生行事としてではなく、通し番号付きの直轄行事を大阪で開くというという判断は、事務局にとって思い切ったものだったのではないでしょうか。一出展経験者として、その決断が「吉」と出ることを願っています。

ちなみに来年度、私は大学院後期3年目(韓国留学時から通算すると5年目)であり、先日指導教授から原案承認をとりつけた博士論文を本格的に書いている頃。海外での資料集めなどもすることになるかもしれず、小説にどれだけ注力できるかは不透明な状況です(←この点については後述)。

さて、今回は第1回ポエイチ関連最後の記事として、同イベントで頂いた本の感想を2件綴ります。

<浦橋月葉『植民地の終焉』浦橋天地堂、2012年>

著者の浦橋さんは、私の右隣のブースで作品を配布されていた個人サークルの方です。気さくな上、論理能力や質問術にも長けている方で、たまに会う「学界の一員でないことが惜しまれる」タイプの人です。

さて、その浦橋さんがお書きになったスパイ小説『植民地の終焉』。

中米某国の沖合いにある島をめぐり、領有権を主張する2つの国家が繰り広げる対立と、その後に訪れる政治的和解。マクロな次元で展開されるゲームに、両国、そして係争地である島の人々が振り回されていく過程を、スパイの視点を中心に描いています。

舞台となっているカリブ海の島にはフォークランド紛争、キューバ革命、そして香港・マカオ返還と、現実世界における政治イシューが多分に織り交ぜられており、政治学の中でも国際色の強い分野を専攻している者としては、とても楽しく読むことができました。

一つ惜しまれるのは、ハードカバー換算で100ページ強と、分量が少ないこと。チキンレースにも似た領土紛争、社会主義革命、エスニックおよびナショナルの両アイデンティティ、植民地返還をめぐる政治的決断。更には登場人物の間で浮かび上がってくる『正義』の相違。本作品に詰め込まれた要素は、その一つ一つが長編小説の主題としても通用する逸材ばかりです。長編しか書かない者としては、本作の著者による二十万字超の大型作品を読んでみたい、という思いを強く抱きました。

<幻想郷交通公社 社報「白轍」第一二七季皐月号>

ポエイチの頒布物としてではなく、私のブースで拙作『解放する者たち』をお買い上げ下さった方が、自己紹介の一環として下さった同人誌です。題名を見てお分かりの方も多いでしょうが、東方Projectの二次創作誌です。

著者の方は、シューティング・ゲームとして根強い支持を得ている東方の舞台・幻想郷を長野県の白馬と仮定した上で、その白馬の現実の近現代史について色々と考察されていらっしゃるとのこと。

私が頂いたナンバーでは、白馬を含む日本の農村部における地主制について、明治期の近代的地主制の形成から、昭和前半の土地改革に至るまで、歴史的な経緯が丁寧にサーベイされています(ちなみに著者の方は、『解放する者たち』の主人公が日本統治下の朝鮮における地主の出自であるという、いわば「地主制つながり」で、本書を私に下さいました)。

ゲームやアニメの設定のうち、製作者が詳細に語らない部分の設定を色々と考えるという一種の「遊び」は、そこに二次創作の余地があるが故に多くの人を惹きつけるのでしょう。英語圏では「スター・トレック」を題材に同じような遊びが何十年も前から行われていると聞きます。

本書もそうした「遊び」の一種なのですが、この種の「創作遊び」の要諦は「楽しく、しかし手を抜かずに真剣に遊ぶ」という点。これは私の小説のような一次創作にも言えることですが、手抜きをした生半可な創作遊びは、場合によっては「読み手と元ネタに対する侮辱」となります。

上述のサーベイを読んだところ、本書の著者がこの「手を抜かずに遊ぶ」という作業をきちんとやりきった、という印象を得ました。戦前の日本の土地制度をめぐる下調べとその記述の仕方は、学部の卒論に大方転用できる水準に達していましたし、その上で東方を絡めた捻りを後半部に織り交ぜるという作業も、文章の流れを止めずにこなしていました。

ちなみに、本書の奥付には編集者の名前として「嘉島安次郎」とあり、ブログの自己紹介では「嘉島秀雄」と名乗ることもあるのだとか。「鉄道友の会」の会員である私としては、思わぬところで同好の士を見つけた形です。


さて、私自身の小説についてですが、現在、フィリピンを舞台とした長編を執筆中であり、秋までには書き上げたいと思っているところです。来月には第十五回文学フリマの出展募集も始まるので、仮に出展が可能になった場合、11月の文学フリマで頒布したいと考えています。

が、私・高森純一郎の「中の人」は向こう半年、

①9月10日までにペーパー作成の上、10月14日に所属する学会の学術大会で分科会報告
②11月17日に大学で開かれる研究会で発表
③年が明けて1月15日に学会機関誌への論文投稿締め切り
④これに加えて大学のジャーナルにもう一本ぐらい論文を載せるかも…

と本業での予定が目白押しであり、先月の文学フリマに『解放する者たち』を間に合わせた時以上に日程上の余裕がない状況にあります(今年前半の「中の人」は、以前の記事で書いたフィリピン研究の論文を書くだけだったので)。

今後は、今まで以上に「小説を書く時間を見つける・作り出す」テクニックが必要になるかもしれません…。

尚、11月の文学フリマに仮に出展できるのであれば、これまで即売会未頒布だった過去の作品のうち、比較的好評だった文化大革命を題材にした長編を刷り直し、頒布したいと考えています。仮に新作を落とすことがあっても、こちらは何とか人目に触れる形で出して生きたいと思っているので、ご期待のほど、よろしくお願いします。
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2012.06.26 / Top↑
前回の記事でちょこっと宣伝した私の政治学論文。先日校正作業が終了し、校正済み原稿を大学の事務方に提出してきました。

勿論このご時世、論文集への投稿に際して紙媒体の原稿だけを先方に提出しても意味はなく、データ原稿を紙原稿と一緒に事務方に提出しなければならないのですが、このデータ原稿、「CD-ROMに焼き付けるか、もしくはフロッピー・ディスクに保存」という条件付き。

フロッピー・ディスク

懐かしさすら覚える単語です。その懐かしさに促されて数年ぶりにFDを使用。USBメモリーとは比較にならない処理速度の遅さは、もはや安心感すら覚える領域。

でも、時間を20年ほど遡れば、そこには「電子媒体=FDの天下」ともいうべき時期があった訳で…。今から20年の後、やはりそこには、USBが旧世代の遺物となっているような時代があるのでしょうか…。

ということで、20年に引っ掛ける形で本日ご紹介する最初のネタがこちら。

最後のトルタ

詩歌を作っておられる団体TOLTAが販売しておられる作品集の企画書です。私はポエイチ出展者ということで、無料で頂く形になりましたが、一般にも400円で販売されている企画書です。

この企画書を受け取り、そこに記録されたシリアルナンバーをエントリーすると、同団体が2032年5月に原稿を締め切り、同年12月以降(つまり約20年後)に発行する作品集に投稿する権利が与えられます。ちなみに、投稿作品のジャンル・分量は不問とのこと。

私は勿論エントリーさせて頂きました。ちなみにエントリー時に「言語も不問ですか?」と伺ったところ、「不問です。プログラミング言語で書く人がいてもおかしくないと思っているぐらいですので」との返信。韓国語で書こうという自分は、まだまだ未熟なようです。

さて、20年後に出る作品集に、どんなものを載せようか…。

北九州書房『溶鉱炉』第2号

先月の文学フリマで購入した最新の第3号が面白かったので、今回のイベントでバックナンバーを購入させていただきました。北九州市立大学の関係者が立ち上げられた同人誌で、計13本の短編小説が収録されています。

表紙は、北九州市の洞海湾にかかる若戸大橋の夜景。とてもきれいな写真です。

↓ちなみにこちらは、私が現地で撮影した若戸大橋。付近が散策路として整備されている上、湾内の渡船で橋を真下から見上げることもできるので、観光地としてオススメです。
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執筆者の方は全員私より年上で、従って社会人としての経験も相応にお持ちの方ばかり。いわゆる純文学との縁すっかり浅く、専ら社会志向の小説を書いている身としては、自分よりも豊富な社会経験を持ち、且つそれを文学作品に反映させている方々に羨望の思いを抱くことが多々あるのですが、『溶鉱炉』第2号の収録作品は、そうした羨望の思いを掻き立てられるものばかりでした。

特に印象に残った作品。

中野亮「一〇〇万の男」
「分不相応な理想さえ掲げ」て行政書士になった男が、行き詰まり、消えてしまいたいという思いに駆られたものの、その矢先に一片の光に救われる様子を描写した作品。10年と少し前、まさに分不相応な理想を抱きつつ政治学の道へと足を踏み入れた自分と重なるものがありました。将来、プロフェッショナリティの限界を問われる場面に遭遇したとして、やはり自分も「消えてしまいたい」という諦観を抱くのだろうか。読後、そう自問せずにはいられない一編でした。

近藤太「原発用地取得」
電力会社の孫請けとして原発予定地の土地買収交渉に関わった男の回想(という形で進む小説)。安直なレッテル張りや、手垢に塗れたスローガン。知識人と目される人々や、オピニオン・リーダーを自任する人々が展開する原子力行政批評に「原発を批判するにしても、インテリジェンスが感じられない言説が多すぎる」と感じていた私は、原子力発電の影の部分を平易な文体で、しかし重みを以って描写した著者の才覚に脱帽しました。
2012.06.21 / Top↑
明日(6月19日)は、太宰治の命日・桜桃忌です。日本文学史に名を残す偉大な小説家に、64年の時を超えて思いを馳せたいと思います。

以前の記事でも書いたことなのですが、私は中学2年生だった15年前、『斜陽』を契機として太宰文学にのめりこむという、いわば「中二病」を経験しました。その時に始めた小説の執筆活動は、ご覧の通り10年以上続く結果となり、私にとって鉄道旅行(趣味歴17年)と並ぶ息の長い趣味と相成った訳ですが、その作品傾向が当初の路線からかけ離れたものとなったことは、本拙文の3つ前の記事を読んでいただければ一目瞭然(汗)。

ちなみに、現在執筆中の新作はマルコス政権末期のフィリピンを舞台に、理不尽な社会構造と個人の規範意識の擦れ違いを描いた長編です。「著者は太宰に触発されて小説を書き始めました」と言っても、俄かには信じがたいかもしれません。

《宣伝》もし上記新作の背景に興味のある方がいたら、9月7日に明治大学大学院から刊行され、全国の大学図書館に配布される『政治学研究論集』第36号に「人為的要因による社会関係資本喪失の影響とその特徴―フィリピン・バタンガス港開発事業を事例として―」という論文が載るので、御一読下さい。高森純一郎の「中の人」の論文です。

閑話休題。

先ほど太宰の作品群を読み返していて改めて感じたのは、「人間と社会を相互に独立した存在と捉えられる領域」というものが、その文章の中に確固として形成されていること。

私は本業が政治学専攻ということもあり、人間と社会の関係について「両者は相互に作用しあう変数である」という考え方を持ちつつ、小説を書いています。勿論、この問いに絶対的な正解答などありませんが、こうした「社会性」をどこまで持ち込むかによって、各人の小説のあり方が大きく変化するという点は、私が指摘するまでもないと思います。

その文脈でいくと、福岡ポエイチで購入した作品のうち、以下にご紹介する作品は、自分の小説が「登場人物と背景社会の関連を押し出す」という、社会性を強く帯びた代物であることを改めて実感させてくれるものとなりました。

昏林果奈「光」(同人誌『遡』収録、2012年)

著者の方は先月の文学フリマで拙作『ガラスの瞳』を購入して下さり、読後感をサークルのブログにアップして下さいました(当該記事はこちら)。

その記述の中に「私も、今回の新刊冊子で偶然にも、田舎、御世継ぎ問題、異邦人として現れるヒロイン、親に縛られる子供達、という似通ったテーマで小説を上げており」という一節があったこともあり、興味を持ちつつ当該作品を読ませて頂きました。

確かに『ガラスの瞳』と同様、昏林氏の「光」も、閉ざされたコミュニティの中で暮らす、他者とのつながりに乏しい主人公を置き、その生き方が他のコミュニティからやってきた少女の存在によって変化していく、という点では共通点を有しています。

ただ、「光」は『ガラスの瞳』と上述の「社会性」という視点において決定的な違いを有しています。

『ガラスの瞳』は、舞台となるコミュニティの固有名詞こそ明記していませんが、よほど日本国内の地理に疎い人でなければ「三陸海岸のどこか」であることは容易に分かるようになっています。そして、日本人が地方都市のコミュニティに対して抱くbondingなイメージを伴うことによって、コンテクストが一層理解できるようになっているはずです(著者は執筆に際して、岩井志麻子の‘岡山もの’を意識しました)。

これに対して「光」は、主人公の名前がグァンであるなど、大陸漢字文化圏(含インドシナ)が舞台らしいということは分かるものの、そこが具体的にどこなのかは最後まで判然としません。そして、万が一読者が「舞台はこの辺じゃないか?」と推察したところで、その作業が殆ど徒労に終わるであろうほど、背景となる世界が抽象化されています。

両者の違いについて、前者の書き手として(多分に自戒を込めて)感じるのは、「光」が、人間の社会に対する独立性を所与の条件とし、特定地域における特定の社会的コンテクストに左右されることのない存在としての人間を描いているということ。『ガラスの瞳』の主人公・ナオミは、一見するとヒロインである少女・コトネとの邂逅によって変化しているように見えるものの、実際には日本における地方都市コミュニティの性質、性意識を巡る現代の社会的通念、そして高度大量消費社会における家族像といったものに、より強くその特徴を規定され、変化させられています。対する「光」の主人公・グァンは、その初期条件こそ居住コミュニティや家族の存在によって規定されているものの、物語が動き出した後は、主にヒロイン・アンと、自らの思考によって、その性質が規定されています。

昏林氏は、『ガラスの瞳』に対して期待外れだったという感想を抱かれたようですが、それはひょっとすると、拙作が人間が持つ社会(それも国民国家を単位とする社会)の従属変数としての側面を強調しすぎていると感じられたことから来ているのかもしれません。ちなみに、『ガラスの瞳』の次に上梓した拙作『疎遠なる同胞』では、主人公のベトナム人少女・チャウは、韓国軍のインドシナ派兵、サイゴン陥落、そして韓国政府のご都合主義的排外政策によって、徹底的に振り回され、そして完全に一方通行の影響を受けています。社会を意識せずにいられない小説家の書いた文章として、両者のうちどちらが好評であったかは、もはや言うまでもなく…。
2012.06.18 / Top↑
去る6月13日に、5月6日の第十四回文学フリマおよび6月10日の第1回福岡ポエイチにてご購入いただいた『ガラスの瞳』売上金を、発行人の名義にて寄付させていただきました。詳細は以下の通りです。

寄付方法:ふるさと納税(カード決済)
寄付先:岩手県総務部税務課
指定使途:ふるさと岩手応援寄付(いわての学び希望基金)
寄付金額:一冊単価400円×売上数12冊+著者からの献金1200円=計6000円

ご協力ありがとうございました。
2012.06.18 / Top↑
九州では初とされる文芸作品即売会「福岡ポエイチ」が無事に終了しました。

実行委員の方々のご努力には頭が下がるとともに、詩作をされる方とゆっくりお話しする時間が持てるなど、とてもアット・ホームなイベントとなり、私としてはとても楽しく過ごすことができました。

おかげさまで、今年の春に書いた新作『解放する者たち』は完売いたしました。ご購入くださった方に心より御礼申し上げます。また、このことに浮かれず、より充実した作品をかけるよう今後とも努めていく所存ですので、今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いします。

本イベントの詳細な感想は後日関東に戻ってからアップするとして(今はまだ福岡市内のホテルにいるので…)、とりあえず、売り上げを寄付することになっている『ガラスの瞳』の売り上げ金額についてご報告させていただきます。

本イベントにおける『ガラスの瞳』の販売部数は、先月の文学フリマと同じ6冊でした。同作の単価は400円ですので、両イベントでの売り上げ金額合計4800円(端数切り上げ+著者献金で6000円とします)を、今月中に岩手県にふるさと納税という形で寄付することになります。

この件については、寄付が終わりましたら、改めてご報告させて頂きます。

最後に、「福岡ポエイチ」実行委員の皆さん、来場者の皆さん、お付き合いする機会のあった他のサークル関係者の方々に、心より御礼を申し上げます。

ありがとうございました。
2012.06.10 / Top↑