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うさみみパートナーズ『うさしょ!:うさみみ少年アンソロジー』

ウサギに対してよく抱かれるステレオタイプ(ex. 寂しいと死んでしまう、ニンジンが好き…)を擬人化した作品集です。

きれいに描かれた表紙のイラストに、縁を丸くカットするという洒落た製本が気になったので購入しました。

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自分の頒布作品が「学術雑誌の抜き刷り」をイメージして白無地に作品名・著者名のみを記すというシンプルな装丁を基本としているので、たまにこうした手の込んだ作りの本を見ると、「カバーデザインまで手間暇かけて作品を売るなんて、すごいなあ」と思います。

さて、この作品集の巻頭言には編者のメッセージとして「ただただ趣味で作りました」という一節がありますが、元から物語を書き慣れた方々が筆をとられたからなのでしょう。「趣味」の一言で片づけるにはもったいない作品が複数収められています。

特に私が気に入った青川有子さんの「さみしくても、死なない」は、魔女の力で人間の少年となったウサギが主人公という、一見すると童話を連想させるお話です。

ただ、この作品は童話をイメージした世界観を提示して終わりではなく、この少年をとり囲むイヌやネコの偏屈な性格、一筋縄ではいかない魔女の人柄などを面白く描いています。また、人間となったウサギが、かつてウサギだった頃の感覚を失い、そしてその感覚を失ったことに気付く一方で、新しい「人間としての感覚」を得て、さらにそれを自覚する様子も描いています。

序盤の面白さを終盤の心温まる収め方へと上手くつなげているところに、よくプロットが練られた作品だという印象を受けました。


第十七回文学フリマでは、この他にも完成度の高い小説をいくつも購入する機会に恵まれました。ただ、来月以降高森の「中の人」が次年度の学会発表に向けて動き始めるという事情があるので、感想文を本ブログに記すのはここで一区切りつけることにしたいと思います。

来年の文学フリマでも、質の高い小説が数多く頒布されることを願っております。
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2013.11.25 / Top↑
『まちあかり―飯灯―』

五人の女性によるサークル「まちあかり」さんの作品集第5弾です。一昨年秋の文フリ、並びに昨年秋の文フリで購入させていただいたバックナンバーが面白かったので、今回も購入と相成りました。

(ご参考までに、バックナンバーの感想はこちらに記してあります→http://takamorijunichiro.blog.fc2.com/blog-entry-47.htmlhttp://takamorijunichiro.blog.fc2.com/blog-entry-32.htmlhttp://takamorijunichiro.blog.fc2.com/blog-entry-20.html

「まちあかり」さんの作品集は、毎回テーマを決め、そのテーマに沿った詩や小説をメンバーが執筆、掲載するという形をとっておられるのですが、今回のテーマは「食事」。編集後記にも書いてある通り、読んでいてお腹が減ると同時に、心がとても温まる一冊です。

小張葵さんの「お夕食、いかが?」は、三回ほど読み返しました。大人になると、食事の席が互いの腹を探り合う場になったり…或いは特定の相手を呼び出し、話を聞きだすための口実として食事の席を設けたり…ということがどうしても多くなってしまう訳ですが、それでもやはり、食事は「食べることを楽しめる人」と、そして「美味しい物を素直に美味しいと言える人」と一緒にとりたいものです。そんな、誰しもが抱いているであろう思いに響く、短くも素敵なお話です。


磯崎愛『美の女神、海へ還る』(唐草銀河: http://karakusaginga.blog76.fc2.com/

ルネサンス期のイタリア・フィレンツェを舞台とした西洋歴史小説を2本収録した作品集です。表題作は、二十代の若き女性が思いを募らせる相手に宛ててしたためた手紙という体裁で書かれたもの。女性が綴った複数の手紙を時系列に並べ、それを順に読んでいくことで女性の思い、および差出人と受取人の周辺状況が明らかになっていくという作りになっています。

小説の中で登場人物の思いを綴りたい場合、当該人物に手紙を書かせるというのは比較的オーソドックスな手法です。即売会に作品を出すようになってからはあまり採用例がありませんが、私もかつてはこの手法をよく用いました。

この手法の最大の難点は、著者が登場人物に手紙の中で自らの思いを吐露させようとするあまり、その文面が私信としてはしつこく、不自然なものになってしまうこと。本作の著者はこの陥穽を、女性の書いた手紙の数を計5通に分割することで回避しています。

短くも、丁寧に作りこまれた作品です。
2013.11.17 / Top↑
神風零『桜花(五):終戦編』

4月に大阪で購入した大和雪原さんの長編小説『桜花(一)~(四)』の最新刊にして終章となる作品です。

『桜花(四)』までのレビューはこちらをご覧下さい。

血の気の多いパイロット・杉本、異様な殺意を湛えた元関東軍・神谷、その神谷の「作品」である人間兵器・純矢、その純矢に何故か思いを寄せる女性・百合子、そして母性の塊ともいえる士官・山崎。

一癖も二癖もある海軍航空部隊の面々が、太平洋戦争で戦地へ赴き、空へと飛び、そして散っていく過程を描いた本作。その〆である第五巻では、母性の裏に暗い過去を隠す山崎が、その母性の対象である部下を失う中で憎悪の炎を燃やす姿が、そしてその山崎に以前と変わらず懐きつつも、上官との間に着実に距離感を生じさせていく杉本の苛立ちが、周辺人物との関わりに言及しつつ描写されています。

私はかつて、大学院の授業で軍事学(現代軍事戦略論)を学んだ際、軍人を「戦争をするという国家意思の執行者」として見る視点が、「国家の意思」そのものに注目することと並び、基本的な事柄でありながらもいかに重要かを説かれた記憶があります。

その、国家意思の執行者である軍人の役割は、まず以って敵を排除し、国家意思を成功裏に執行すること。

しかし、本作品終章の舞台は太平洋戦争末期の航空部隊。機材・燃料・パイロットが不足する中、彼らは敵を排除するという役割を担えない。

本書の登場人物の大半は、根っからの軍人です。軍人であることが存在理由になっている人物たち。その彼らにとって、上述のような状況は苦痛以外の何物でもない。唯一、軍人としての役割を執行する方法があるとすれば、特攻。

ここに、本作品の題名が特攻兵器の名称である点が意味を持つようになると、私は感じました。即ち、捨て身である特攻用の兵器と、大戦末期、従来の方法では軍人としての役割を執行できずにいる登場人物たち。その両者に内在する(戦後メインストリームの価値観から見るところの)狂気が、重なり合うのです。

他方、本書の著者は、軍人たちの、今日的観点からすれば理解しがたいともいえる思いだけを描いておしまい、とはしていません。戦後左右両翼がまるで示し合わせたかのように無視し、「終戦」という便利な表現の中に封印してしまった、しかし当時の軍人たちの多くが明らかに抱いた思い…つまり、「戦争に負けたことの責任」にも正面から向き合っています。

先述の通り、軍人の役目は戦争をし、それによって何らかの目的を達成しようとする国家の意思を執行すること。

敗戦は、その意思の執行が結果として不達成に終わったことを意味します。

フィリピンで戦犯として訴追され、刑死した山下奉文大将の遺言などにも窺えるように、敗戦と、敗北までに生じさせた戦死者への責任意識を抱いた軍人は、決して少なくありませんでした。著者はその責任意識を、

「国を死なせてしまったことは、全て我々士官の責任だ(126ページより抜粋)」

という端的な言葉に表し、そしてそれを某人物のセリフとして作品中に登場させています。そして、その軍人たちの責任意識と、軍人たちに向けられる自国民からの非難とが、何故戦後間もないうちにうやむやとなったのかにも言及しています。

著者はご自身のサイトで「自分は軍人を描きたいのであって、歴史モノを書いているつもりはない」という旨を述べられていたと、私は記憶しています。しかし、その軍人へと純粋にクローズアップするアプローチは、むしろ、この国の70年前の有り様を、より現実に近い形で描くことを成功せしめているといるでしょう。
2013.11.11 / Top↑
既にツイッターの方でもアナウンスしましたが、11月8日にフィリピンで発生した台風30号の被害の甚大さに鑑み、去る11月4日に行われた第十七回文学フリマにおける拙著『共和国の貴族』の売上金を、以下の要領にて寄付いたしました。

寄付先:日本赤十字社・2013年フィリピン台風救援金
寄付日:2013年11月11日
金額:4000円

『共和国の貴族』は、1980年代半ばにフィリピン・マニラにあるアジア開発銀行へ赴任した大蔵官僚が、現地での職務を遂行する過程で、またルソン島中南部の港湾都市・バタンガスにおける劣悪なインフラ状況を目の当たりにする中で、自らの社会的な立ち位置となすべき行動を見出していくという小説です。物語の中に、ある人物が沿岸部の劣悪なインフラのために水害で命を落とすという記述もあります。

この数日来のフィリピンの状況を見聞きする中、拙作を書く過程で抱いていた問題意識を思い起こすところがあったため、売上金の寄付をさせて頂くこととしました。

非常に僅かな額ではありますが、被災された方々の支援としてご活用いただければと思っております。
2013.11.11 / Top↑
今回から暫くの間、去る11月4日に行われた第十七回文学フリマで他サークルさんが頒布された作品の感想を記していきます。

唐橋史『さんた・るちやによる十三秒間の福音』

前回の第十六回・今回の第十七回と続けてお隣さんとなったサークル・史文庫さんの作品です。時代考証に力を入れた歴史・古典小説を出されている方で、前回購入した『出雲残照』が面白かったので、今回も購入と相成りました。

短編小説3本から構成される作品集で、うち2本が外部投稿作品の再録、表題作となっている1本が描き下ろし。表題作は、江戸時代初期の長崎を舞台とした作品で、幕府側によって摘発されたものの、棄教を拒むが故に打ち首となるキリシタンを、首を刎ねる武士の側から描いたものです。

当時から21世紀初頭の現在に至るまで、日本におけるキリスト教は、カトリック、プロテスタント、正教会の別を問わず、いずれも圧倒的に少数派です。開拓伝道も、人数という尺度で見れば低調。私・高森も、一応クリスチャンではあるものの、韓国と深く関わる中で韓国型のキリスト教信仰を持つに至ったこともあり、「日本のキリスト教」に影響されて洗礼を受けたとは言い難いところがあります(余談ですが、私は日本・韓国と教会籍を二重に持っています)。

そのように、キリスト教の教勢が強くないこの国にあって、江戸時代のキリシタン弾圧に対して向けられる視線は、『キリスト教徒=弱い少数派』という図式を前提とした、様々な固定観念を内在させることが往々にしてあります。しかし本作品は、機械的・事務的にキリシタンの処罰を行う体制に視点を設定し、敬虔に御救いを信じるキリシタンの女性、および彼女と共に刑場に引き出された隠れキリシタンたちの姿を印象的に描く一方で、キリシタンたちを罵倒し、或いは冷やかす群集の視線を周辺化するという図式を取っています。

キリシタン弾圧という史実を題材としつつ、そこに付随する様々な『フリル』を取捨し、抑圧する者と抑圧される者の関係という『コア』の部分だけを切り取った本作品は、それを読む者に、当該史実が世界の歴史上繰り返されてきた抑圧の一種であるという事実を(体制側に視点を設定していることもあってより鮮明に)再認識させる側面をもっているといえます。

換言すれば、本作品は、キリシタン弾圧を題材とした小説でありながらも、そこから『キリシタン』という半ば固有名詞化したキーワードに付随する様々なステレオタイプを取り払うことで、当該弾圧が赤裸々な権力の行使であったということ、もっと言えば、同じような類いの抑圧は、キリスト教を被抑圧者としたものに限らず、この世界に普遍的に存在してしまっているということを思い起こさせてくれるのです。

著者は本書の「あとがき」で、この作品がフランス革命の時期のギロチンから一定のヒントを得たものでもあるとしています。キリシタン弾圧を描くにあたり、カトリック社会であるフランスにおける断首刑、即ち、クリスチャンがクリスチャンを殺す関係性がヒントの一部とされている点は、本作品が『キリシタン』という固有名詞に囚われることなく事の本質を描写したものであることを示唆しているといっていいでしょう。
2013.11.09 / Top↑
昨日、東京流通センターで開催された即売会・第十七回文学フリマに出店いたしました。

雨が降るあいにくの天気ではありましたが、多くの来場者を数え、イベントは盛況となりました。

おかげさまで、私・高森純一郎のブースは午後3時前に全作品完売となりました。当ブースで頒布を手伝ってくれた友人、今回のイベントで当ブースへお越し下さった方々、そしてツイッターでの告知などをして下さった方々に、心から御礼を申し上げます。

万が一、本日私のブースでご希望の作品をご購入頂けなかったという方がいらっしゃいましたら、高森純一郎のツイッターアカウント(@takamori_j:本ブログにリンクがあります)まで、購入希望のDMをご送信願います。今回頒布した3作品は、いずれも僅少ながら在庫がありますので、先着順にて対応させて頂きます。

さて、今回の文学フリマでは、アジアの近現代に興味をお持ちの方や、大学で社会科学を勉強したいという高校生の方とお話をする機会がありました。高校生の方とお話しする機会があったのには、驚きつつも嬉しいものがありましたね。正直なところ、著者として「自分の小説に関心を持つ人は大学生や社会人」と思い込んでいたところがあったので…。同じく高校生の頃から「大学で政治学を学びたい」と思っていた者として、自分の学術研究の原点を振り返る好機ともなりました。

私の小説は、20世紀の半ばから後半にかけてという、「現在というには古すぎ、歴史というには新しすぎる」線引きの難しい領域を扱っているのですが、こうした領域に関心を持つ方と出会い、話をし、作品案内をお渡しし、そして時に作品を購入していただける、という一連の過程には、他に代えがたい充実感があります。

今回のイベントの後、浜松町へ戻るモノレールの中で、売り子をしてくれた友人が「今回の文フリに参加してみて、あんたがとてつもない手間をかけてまで自分の書いた文章を売ろうとする理由が分かった」という言葉を口にしていました。

自分の考えが文章として具現化し、それが雑誌や冊子として形になるというのは、勿論それ自体が達成感を得られるものです。私の本業は政治学の研究ですが、自分の書いた論文が(たとえ社会の変革や発展にごく僅かしか貢献しないものであっても)ISSNコードの付された雑誌に掲載された時、充足感に満たされるところがあります。

しかし他方で、自分の書いた小説を冊子として印刷・製本、即売会に持ち込み、一冊一冊、時に購入者の方の興味関心に関する話も交えつつご案内・頒布していく作業には、自分の書いたもの、或いはそこで訴えたいことが他の人に伝わっていく過程を肌で実感できるというアドバンテージがあります。

自分の書いた論文が雑誌に載るのは嬉しいですが、当該雑誌がどういった形で、どういった関心を持った人の手に渡っていくのか、一投稿者に過ぎない者としては把握できませんからね…。

もとより、私の小説が、斯様な興味関心をお持ちの方の知的好奇心にどこまで応じられているか、不安がない訳ではありません。今後よりよい小説を書けるよう努めなければと、自分に言い聞かせているところです。

なお、今回の文学フリマでも、他サークルさんの作品をいくつか購入しました。それらの感想については、後日、改めて記事にしたいと思います。
2013.11.05 / Top↑
※第十七回文学フリマ出店・来場予定者の方へ※
11月4日に開催される第十七回文学フリマでの「高森純一郎(イ-12)」の頒布作品一覧を前回の記事に掲載してあります。当該記事をご覧頂き、イベント当日、私・高森のブースへお越し頂けますと幸いです。

10月31日から11月1日にかけて、長野県へ出かけてきました。

両日とも三連休前の平日であり、通常であれば大学の仕事が入っているところですが、現在、私の関わる大学2校はいずれも学祭期間中。教職員の多くにとってはオフとなる時期に当たります。

この数ヶ月ほど、本業で日韓の農村振興政策を比較する中、「日本で官民共同による地域振興政策が最も成功した例」として長野県小布施町の名を目にすることが多かったので、このタイミングを利用し、半ば勉強・半ば観光で同地へと出かけてきました。

ちなみに、小布施を訪問するのは実に13年半ぶりのことでした。

今回の道中、長野駅から小布施駅まで長野電鉄の特急列車に乗ったのですが、その際の車両がこちら。

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この車両、かつて小田急電鉄のロマンスカー‘HiSE’として走っていたものを、長電が2006年に譲り受け、‘ゆけむり’という愛称で運用しているものです。

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(こちらが、‘ゆけむり’の小田急時代の姿)

地方の私鉄がJRや大手私鉄の中古車両を導入するというのは昔から広範に見られることです。長電ではこのほかにも、東急やJRなどの中古車両が活躍中です。

鉄道ファン暦もそこそこ長くなると、この地方私鉄への車両譲渡は、時に特別な意味を持つようになります。

それは、「かつて地元で何度も乗り、大変お世話になった馴染み深い車両に、地方で再会するようになる」というもの。

首都圏で数を減らしつつある、或いは既に見られなくなってしまった車両との再会。その車両の、地方譲渡前の姿を日常的に目にしていたとなると、再会に際しての感情は、単なる嬉しさ以上のものがあります。

‘ゆけむり’の前身であるロマンスカー‘HiSE’は、1987年に小田急線開業60周年記念事業の一環としてデビューした車両。1984年生まれの私にとっては、生まれて初めての「新しいロマンスカー」でした。当時、小田急沿線の保育園に預けられていた私は、大の泣き虫だったにもかかわらず、園庭からこの「新しいロマンスカー」が通過する姿が見えると、すぐに泣き止んだのだそうです。

デビュー当時の鮮烈な印象を幼少期の私に刻み込んだ‘HiSE’は、その後2012年に最後の1編成が小田急から引退するまで、何十回と、私の日常生活での移動を支えてくれました。そんな経験を持つ一鉄道ファンである私にとって、長野の地で装いを改めた同車に再会した時の感情は、久しく会っていなかった友人と再会した時のそれにも似たものがあったのです。

さて、かつて「新しいロマンスカー」としての‘HiSE’を見て泣き止んだという元3歳児は、現在既に29歳。友人の子供にロマンスカーのプラレールを買い与えるような歳になりました。この約四半世紀、人間としての私は着実に歳を重ね、そして鉄道ファンとしての私もまた、それだけの時間を積み重ねてきたのです。

「仕事だけでなく、趣味もまた、時間と経験を重ねることで見えてくるものがある」という話をどこかで聞いたことがありますが、今回の旅行で私は、その一端を垣間見た気がしました。

もとより、私の鉄道ファン歴はまだ30年未満。世の中には、10代で鉄道に興味を持ち、90代で亡くなるまで鉄道ファンであり続けた方もいらっしゃいます。

小布施にある葛飾北斎の作品を展示した美術館「北斎館」の展示には、北斎が画家暦半世紀以上を過ごした後に新たな心境に至った、とありましたが、それと似て、私もまた、趣味の道の深みを充分知るには至っていないのかもしれません。

執筆歴16年半に過ぎない小説の方も、また同様で…。

いたずらに時間をかければ良いものではない。しかし、時間をかけることで見えてくるものもある。そんなことに改めて考えを巡らせる機会となりました。
2013.11.02 / Top↑