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今日までの3日間、旅行で宮城県を訪れておりました。

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今回の旅行のお目当ては、温泉と、女川での海鮮料理。女川漁港で水揚げされたマグロを使ったネギトロ丼を食べたのですが、脂たっぷり、大変美味でした。

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さて、今回の旅行では、仙台から女川へ行く途中、2年ぶりに仙石線の野蒜(のびる)駅へも立ち寄りました。

私が同駅に初めて降り立ったのは、1998年8月下旬、中学3年の時でした。

その日私は、松島を観光した後、石巻へ足を伸ばそうと仙石線下り列車に乗ったのですが、ほどなくして大雨が振り、同線は運休。私の乗った列車も、途中駅で運転が打ち切られました。

その途中駅が、野蒜駅だったのです。

予期せぬ形で下車する形になった同駅ですが、特徴的な駅名に加え、駅前の東名運河や、その先に広がる雨模様の奥松島などを見ることができたことで、むしろ楽しい旅の記憶の1ページとなったものです。

しかし、2011年3月11日の東日本大震災において、野蒜駅とその周辺は甚大な被害に遭いました。旧駅近くに建てられた慰霊碑に記された言葉によると、周辺地区での犠牲者の数は130人を超えたそうです。

被害の甚大さに鑑み、野蒜駅は隣の東名駅とともに内陸へ移転することとなったのですが、線路を移設するという事業は容易ではなく、両駅が一昨年5月に営業を再開するまで、50か月の時間を要しました。

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この間、旧野蒜駅は構内の一部がファミリーマートに改装され、残る部分は多目的スペースに充てられていました。しかし昨年10月、東松島市がこの多目的スペースを本格的に整備し、震災とそこからの復興を記録した「東松島市震災復興伝承館」としてオープンさせたと聞いたので、今回、久々に野蒜で途中下車することにした次第です。

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館内には、旧駅に設置されていた券売機が、錆び付き、破損したままの状態で保管されています。また、震災直後とその後の復興過程を定点観測した写真も多数展示されています。

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旧駅のホームも、震災の遺構として保存していくことが決まったのだそうです。こちらの整備がなされたところで、いずれまた、奥松島の旅行を兼ねつつ、当地へ来たいと思っています。

ある惨劇を、風化させることなく後世の多くの人々に伝承していく上では、その惨劇を特定の場所で発生した「固有名詞」に留めておくのではなく、同種の出来事を今後も起こりうるものとして「一般名詞」化し、そこから教訓を導き出そうとする作業が欠かせません。この施設が、多くの人々に教訓を与えるものとなることを願っています。

東松島市震災復興伝承館
所在地: 宮城県東松島市野蒜字北余景56-36
電話: 0225-86-2985
開館時間: 09:00-17:00
定休日: 毎月第3水曜日
アクセス: 仙石東北ライン、仙石線野蒜駅より徒歩15分
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2017.05.28 / Top↑
本日、福岡ドームで開かれた即売会、COMIC CITY 福岡に出展いたしました。私·高森の小説はお陰様で2作品とも売り切れました。当ブースにお立ち寄りくださった方々に、心より御礼申し上げます。

一般来場者の方も有料制になっている、というシステムのためなのでしょうか、COMIC CITYは文学フリマや福岡ポエイチに比べ、開場間もない時間帯にペース良く作品が売れていく傾向にあります。今回も同様で、開場から完売まで要した時間は、これまで出展したどのイベントよりも速い2時間30分でした。

改めて御礼申し上げると共に、来月11日の福岡ポエイチにおいても、多くの方とお会いできることを楽しみにしております。
2017.05.21 / Top↑
今月に入り、明治大学の姉妹校であるボストンのノースイースタン大学から、短期留学生の一行が来日しています。この週末の3日間、彼ら短期留学生と明治の学生が山中湖畔で共同のワークショップ(つまり合宿)をやったのですが、私も引率教員の一人としてこのプログラムに参加しておりました。

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両大学の学生による共同発表はいずれも順調に行われ、その後は富士山の五合目へ。山頂と雲海の双方を見ることができ、学生たちも喜んでいました。

政治学者としての私は本来、東アジア、特に韓国を主たる研究対象にしています。その私がアメリカの大学との交流事業を担当するというのは、学部内では一種のサプライズ人事だったのですが、かねてより日韓交流のみならず、日米交流にも貢献したいと思っていた私にとっては、大変やりがいのある仕事に関わらせてもらった3日間でした。

さて、来る5月21日に福岡ヤフオクドームでCOMIC CITY 福岡が開かれます。私の出展ブースは「H23a」。販売作品は、先日の文学フリマ東京と同じ2作品です。


『国家を背負って』(2017年作)…頒布価格:500円
1979年、中越戦争が勃発。中国人民解放軍の侵攻を受けたベトナム共産党および政府は、同国人民軍を動員しこれに対処する一方、国会議員らも動員した対中非難のプロパガンダを展開していく。
そんな折、国会副議長の地位にあった古参党員グエン・フー・アンは、密かに党中央・書記長から呼び出され、「中国側が、第三国たるフランス・パリで我が方との交渉を求めている。有利な条件で停戦に持ち込むためにも、同志にはこの交渉に応じ、中国側との話し合いを進めてほしい」と打診される。これを聞き、一瞬、「外務省や軍の人間でない自分が、何故そのような任務を?」と疑問に思ったアンだったが、やがて書記長から、中国側の交渉担当者の名前を聞き、納得する。その人物は、若き日、パリに住んでいたアンが、ともに働き、ともに学んだ旧友だった…。
国籍の垣根を超え、親しく交わった者同士が、やがて各々の国家を背負う。現代世界において時に私たちが経験する事象を、ハノイとパリの2都市を舞台に物語にまとめた作品です。

『大陸と海洋の交差路』(2016年作)…頒布価格:500円
那覇を訪れた香港の文化人類学者・唐瑞延は、これまで自身の沖縄での研究活動を支えてきてくれた台湾出身の恩人・安麗生の職場を訪ねる。台湾政府の意向を受け、長年台湾と沖縄の交流事業に携わってきた麗生は、定年を迎えたこともあり、所属する政府系機関を退職することになっていた。
長年に渡る学恩に礼を言い、また麗生の日台交流への尽力をねぎらう瑞延。そんな彼に麗生は、「これは回顧録にも書かなかったことなのだけれど…」と、ある秘密を打ち明けた。曰く、台湾人として沖縄との民間交流を深めてきたはずの彼女は、実は沖縄本島で、沖縄県民として生まれたのだという。なぜ、沖縄県民として生まれた人物が、台湾人になったのか。その疑問を抱いた瑞延に、麗生は「台湾疎開のことは、御存知かしら?」と問いかける…。
太平洋戦争末期、1万人を超える沖縄県民が、当時日本領であった台湾へと疎開しました。しかし終戦後、彼らの疎開先は中国国民党の支配下に入り、そして彼らの故郷・沖縄はアメリカ軍の支配下に入ります。疎開先も、そして故郷も「日本」ではなくなった日本人疎開民。やがて彼らは米軍支配下の沖縄へ、すなわち中国からアメリカへ「帰る」ことになります。
戦中から戦後にかけての沖縄を、台湾の視点から描いた作品です。


多くの方のお越しをお待ちしております。
2017.05.14 / Top↑
本日、東京流通センターで開催された即売会、第二十四回文学フリマ東京に出展いたしました。

今回、私·高森のブースは、著者が本業での「異動」の時期と重なり、殆ど事前準備ができなかったことから、通常3,4作品販売のところ、新刊1作品、既刊1作品の計2作品のみの販売のみとなってしまいましたが、新刊12冊、既刊4冊、計16冊の販売成績となりました。当ブースへお越しくださった皆様、ありがとうございました。

今回の文フリでの新刊『国家を背負って』は、1970年代末の中越戦争を切り口とした物語。昨年書いた『大陸と海洋の交差路』が、太平洋戦争中の沖縄県民の台湾疎開を切り口としていたのに比べると、導入部分で描かれる時代が30年余り下っています。そのため今回のイベントでは「子供の頃、テレビでインドシナ紛争のニュースを見た記憶がある」と、拙作に興味を示して下さる方が何人かいらっしゃいました。

子供の頃、もしくは若い頃に現在進行形で見聞きしていた出来事が、時間の経過とともに歴史の一部になっていく。そしてある日、かつてはニュースとして見ていた出来事を、今度は歴史として見ることとなる。現代史小説には、そんな楽しみ方もあるのかもしれません。(ちなみに、今私が大学で教えている学生の多くは1990年代末の生まれ。2003年イラク戦争の頃は幼すぎて、テレビで同戦争のニュースを見た記憶がないという世代です)

次回のイベント出展は5月21日のCOMIC CITY 福岡。多くの方の御来場をお待ちしております。
2017.05.07 / Top↑
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4月27日から5月5日まで、次回作の下調べでロシアのモスクワとニジニ•ノヴゴロドを訪れておりました。

これまでもユーラシア大陸の横断にアエロフロートを使うことが何度かあり、モスクワへはトランジットで立ち寄ることがあったのですが、観光ビザを取得し、ロシアでまとまった日数を過ごしたのは今回が初めてでした。

モスクワでは小説の「ロケハン」の傍ら、

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赤の広場での観光や、

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ボリショイ劇場でのバレエ鑑賞(演目はショスタコーヴィチの『黄金時代』でした)を楽しんだのですが、その過程でも、

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レーニン像や、

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スターリン様式の建物、

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壮麗な地下鉄のホームなど、ソビエト連邦の名残を目にする場面は多く、自分が小学生の頃、テレビのニュースで崩壊の様子を目にしたソ連が、この土地にかつて存在したのだと実感しました。

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モスクワに続いて訪れたニジニ•ノヴゴロド。ソ連時代はマキシム•ゴーリキーの出身地であることに因んでゴーリキー市と呼ばれ、かつ軍需工業が盛んであることから外国人の立ち入りが制限された閉鎖都市だった場所です。

上の写真の通り、高台から眺めるヴォルガ川の景色は美しく、また州立美術館にはエカチェリーナ2世の肖像画など、注意を引く展示が数多くありました。旧東側の都市圏の多くと同様、交通機関はよく整備されており、旅行中、特に不自由を感じることもありませんでした。

ただこの都市では、モスクワに比べて低い英語通用率、量的には充分でも、質的には向上の余地を多く残したインフラ整備状況、また極めて低い物価&所得水準と、この国におけるモスクワの地位の「別格」ぶりを感じる場面も多々ありました。ソ連時代、対外的なショーウィンドーであったモスクワとは異なる土地に住んでいた人々の暮らしがどんなものだったのか…この点は次回作のストーリーの核になる予定です。

次回作の完成は来年春と、だいぶ先のことになりますが、記憶に留めておいて頂けると幸いです。

総じて今回の旅行は、現地で多くの方の親切に助けられる場面の連続であったように思います。英語を話さないながらも、スマホの翻訳アプリを使って道案内をしてくださった方、広いターミナル駅でエレクトリーチカ(中距離電車)の乗り場を教えてくださった方、「スタンツィア•メトロ(地下鉄の駅)へ行きたい」という私に、「ここなら駅入口の正面だから」と、本来停留所ではない場所でバスを止めてくれた運転手さん。そうした親切をありがたく思うと同時に、自分もその「借り」を、様々な場所で僅かながらも返していければと思っています。
2017.05.06 / Top↑